異見あり2005
ー=異見あり2005=ー
水の底、地の底からフツフツと、こんな見方もあるんだよと現れました。(12/17更新)
<2005年10〜12月>
ああ、代議制/虚報転じて予言と化す?/都市住民のナショナリズム/崩れる/民間開放のアナ/放送とネットの対立/若者気分/温暖化/ブロッコリー/
<2005年7〜9月>
みんな一緒/国民投票/政党ゲーム/巨人よ、ひよわるな/ライフ・イズ・ミラクル/お目こぼし/共通する価値観はあるか/戦争も民営化/夏だ! コブラ祭りだ!/
<2005年4〜6月>
負け戦の責任/戦死者と戦災死者と戦争受難者/写真が語る/検定狂想曲/押し付け牛肉/アジア解放を目指した男たち/中国にも必要な民主主義/やっと「独立」できる?/TVはネットで?/
<2005年1〜3月>
正しい食べ方/東京を捨てた友/存在は空であるか?/それだけで済むのかしら/分裂したって、いいんだよ/通貨と信用/スポーツとなった大相撲/大津波と"地球に優しい"/ニート/国のかたち/
<2005年10〜12月>
ああ、代議制……(12/17)
主権者の判断で政権を担う政党を交代させることができる制度があっても、主要政党が同じ一色になってしまったならば,実質的に主権者の選挙における選択は不可能となる。現実に置いてきぼりにされた社会党が衰退して以来,自民党批判の主権者の第1の受け皿は民主党だった。その民主党が消えようとしている。消えたって、いいけどね。どうせ半自民党でしかなかったのだから。
ソ連が崩壊し,中国が市場経済に方向転換して以来,日本国内の"左翼"勢力は急速に力を失った。大規模な反対集会やデモが繰り返されてもおかしくないような法案が国会で審議されていても,反対運動は以前のような規模では行われない。ソ連や中国から"左翼"勢力に資金援助があ ったから、大規模な集会やデモなどができたが,その資金が来なくなってみると,日本人自前の政府批判運動の底の浅さが露呈したという見方がある。まあ、自民党や周辺には以前はアメリカから資金援助があって,日本の経済成長とともに日本の経済界が自前で自民党などを援助することができるようになったのに対し,"左翼"勢力はソ連や中国頼みで日本国内に金ヅルを持たなかったという違いが、現在の有様につながっているのだろうが。
「自民党と同じなら自民党でいいではないか」と朝日新聞の社説で皮肉られ、中国敵視,アメリカべったりの前原民主党党首は訪中しても三下扱い。「大連立を」なんて自民党から揺さぶりをかけられ,すっかり弄ばれている。
そんな落ち目の民主党が党大会を開いた。どんなメッ セージが出て来るかと思ったら,前原代表が、小泉のイメージを狙ったのか自説に固執する人物であることが浮き彫りになり,「自分の国,国民に誇りと自信が持て,他国からも一目置かれる国家」になるために「国民が,国が自立しなければいけない」なんて言い出す始末(朝日新聞)。この前原という人は、日本という国に誇りも自信も持っていないらしく、日本が他国から一目置かれる国ではないとも思っているらしい。日本に一目も二目も置いているから中国も韓国も、日本の動向に過剰なまでに反応するという現実の理解さえ満足にできていない。
前原代表なりに日本の行く末を真剣に考えて「公の精神」や「国の自立」などということを考えたのだろうが(同じようなことを書いていたマンガもあったけどね)、しょせ� �は頭の中ででっち上げた観念でしかない。地に足がついていない。まず現実の中に入って見ること。そこから政治は始まる。それが代議制の基本である。エリート面をした人物の観念を具体化する装置が代議制であっては不毛である。現在の日本社会の現実を人々の間に入って、つぶさに見ることから課題,問題が見えて来る。国のかたちを政治家が主権者に押し付けるのではなく,主権者の思いを政治家が汲み取るようにならなければ、日本の民主主義は衰退するだけである。
虚報転じて予言と化す?……(12/10)
【北京=人民月報】社会主義市場経済により人民の間の貧富の差が拡大し,富裕階級・特権階級が形成された中国で,平等を重視する誤った反社会的思想を鼓舞するとしてカール・マ� �クスの著作が06年から発行禁止になる。既発行分についても回収・廃棄が進められる。政府公認の図書館などでの閲覧は可能だが,閲覧には共産党担当部署の許可証が必要になるという。また、体制転覆を煽る過激思想であるとして毛沢東の著作の新規発行停止,閲覧制限も検討されているという。
【ニューオリンズ=CMM】ハリケーンで水浸しになったことが世界中で報じられた当地では,「水の都」のイメージで観光客を世界から集めようという計画が進んでいる。従来の街並みに復興させることを当初は検討していたが,多額の費用と長い時間がかかる見込みであることと、水面下にある当地では,堤防の補修・強化を進めなければ大型ハリケーン来襲のたびに水浸しになることが必至であることから、「水と生きる」都市へと� �造することを決定。ベネチアをイメージした都市へ変貌させることとなった。建物の防水改築を順次進め、06年中にも堤防に水門を設け,徐々に都市部への注水を開始する予定だ。
【東京=嫁売新聞】震度5程度で倒壊する可能性のあるマンションからの自主退去を要請した東京都などの各自治体は,ビル・マンション不審ムードを早期に収束させようと担当者の会合を開いた。これは、震度5程度で倒壊するビル・マンションへの居住を認めないという「基準」を設定すると,旧建築基準法時に適法に建築された多くのビルも震度5程度で倒壊する可能性があり,相当数のビル・マンションが「基準」以下となることが判明したため。「基準」を厳格に適用すると膨大なビル・マンションが使用不能となり,社会的な大混乱を招く� �とから,姉歯関係物件だけに問題をとどめることで合意したという。阪神大震災で当時の建築基準法ではビルの耐震強度が不足していることが明らかになり,耐震性を高める方向で建築基準法が改正されたが,それまでに適法に建築されたビルについては放置されている。
【パリ=ル・モンジャ】厳しい警備のため都市部では下火になった夜間の自動車への放火だが、重点警備の裏をかくように地方への拡散が始まっている。地方の警備を強化すれば手薄になった都市部で再燃しかねず,治安当局は国際イメージにつながりやすい都市部での警備に重点を置くことを決めた。そんなフランスに最近,アメリカからの一風変わった観光客が増えているという。彼らはルーブルなどには行かず,暗くなってからビデオ片手にホテルを出て� ��朝まで帰ってこないという。放火などを見ることができた人たちは上機嫌で、「もっとやれ」などとけしかける人もいるという。アメリカ事情に精通する評論家のモンテ・パパルドゥー氏は「フランスの理念が破綻する様を見て鬱憤を晴らすため米共和党員がやって来ている」と見ている。
【ロサンゼルス=URI京同】ABCに続きNBCのテレビ番組も「iTMS」で配信を開始(1本1.99ドル)し、好調なダウンロードを得ているアップルコンピュータは、06年中に日本でもテレビ番組の配信を開始する。米NBCでは放映中の番組も放映翌日からダウンロードできるが,日本では人気旧作番組のみの配信からスタートする。番組を提供するのは1、2局に絞られているが,1本300円程度との料金を巡って同意にはまだ至っていない模様。アップルは動画 対応のiPodの発売に合わせて日本でも「 iTunesミュージックストア」でミュージックビデオの販売を開始しており,テレビ番組配信の準備も進めていた。「ネットと放送の融合」の先を越されたライブドアや楽天はアップルジャパンへの資本参加を打診しているという。
都市住民のナショナリズム……(12/4)
江戸っ子「都市はどのように形成されたか? 三代前のことなら覚えてんが、それより前のことなんざ知らねえ」
酢豆腐 「人が集まって、物流が生まれ、市場が形成され,それが更に人を呼ぶ。地方からの移住者で都市は成長した」
江戸っ子「どうりで半ちくな田舎モンがやたら多いわけだ」
酢豆腐 「で、ナショナリズムの話だが,ナショナリズムの根底にあるのは愛郷心だという説がある。生まれ育った故郷への愛着が、外� ��への防衛心と結びつき、故郷の延長線上にあるものとして自国をとらえナショナリズムが形成されたという考えだ」
江戸っ子「すると、江戸を守ろうという意識が高じて日本全体を守らなきゃならねえという意識になるってわけですかい? 江戸っ子が江戸を守ろうとするのは解りますがね,なんで江戸っ子が,行ったこともないド田舎まで面倒を見てやらなきゃならねえんですかい? ド田舎のことなんざ田舎モンにやらせておけばいいこった。わざわざ出張るほどのことじゃねえ」
酢豆腐 「そうした愛郷心が、統一国家の形成に伴う愛国教育で愛国心に移行させられるんだな。日本だけじゃなくて、どこの国でも同じだ。つまりナショナリズムは,自然な感情をベースに人為的に形成される」
江戸っ子「なんで江戸っ子� �ド田舎まで愛さなきゃならねえのか、そいつが解らねえ」
酢豆腐 「そこに物語が入って来る。共通の感情を持つことができるように、いろいろな物語が吹き込まれるんだな。歴史や自然などがよく使われる。例えば,『偉大な歴史を持つ我が国は…』とか『美しい自然・風土を持つ我が国は…』とか、やたらと大きなものを持ち出して個人を無化しようとする。国家という大きな物語の中に個人を取り込んでしまえば,国家を代表する権力者らは安泰というわけだ」
江戸っ子「どこの国だって,それなりに偉大な歴史があるでしょうし、美しい自然・風土もあるに違えない。大きな物語って言うんだったら、いっそ人類・地球規模で、偉大な歴史であるとか美しい自然であるとか言えばいいんだ。中途半端なところでこだわるこ� �あねえ」
酢豆腐 「その通り。なんだが、あまり対象が大きすぎると個人のほうで自己投影できにくくなるんだな。ナショナリズムが根強いのは,一方的に吹き込まれるだけじゃなくて,個人の方からも国家イメージにすり寄り,『偉大な国家(という物語の中)の一員である』との満足を得たいという欲求があるからだ。自己実現を国家イメージに重ね合わせているという面がある」
江戸っ子「やっぱり半ちくな野郎たちだ。俺は江戸っ子であることだけで、それ以上は必要ねえんだが、ド田舎でも故郷は故郷だろうに,連中は愛郷心だけでは満足できず国家にしがみつき始めてナショナリズムが流行り出したってことですかい?」
酢豆腐 「帰る故郷を持っている都市居住者は多いだろうが,田舎に例えば実家があるとか土 地があるとかで、懐かしさはあっても愛着というほどの強い思いはあるまい。都市居住者に感情としての愛郷心が心に潜んでいても,田舎にも現に住んでいる都会にも向けることができず,国家という物語を愛郷心の対象に見つけて入れあげ始めたというところかもしれない」
崩れる……(11/26)
フランス各地で起こった自動車への放火などの暴動は、同化主義の限界を示すものととらえられているようだ。一方でロンドンの地下鉄テロが移民二世によるものだったことから、多文化主義にも疑問の目が向けられている。
この二つ,大いに異なるものであるかのように言われているが、実態は同じである。つまり、移民は低賃金労働者としてしか社会的存在意味がない。奴隷制度ならば人権尊重の理念に� ��するが、自由意思でやってきて低賃金で働いているのだから自己責任だとされる。
定住した移民にも生活があり人生がある。子供も産まれる。その子が先住の白人と同じ1人のイギリス人,フランス人として社会に受け入れられれば,それぞれの社会的理念を生かすことができたのかもしれないが、「学校は選別の場,行政は失業問題に無策,警察による差別は日常茶飯事」(朝日新聞)だったというから、同化主義も多文化主義も社会を装飾する言葉でしかない。
欧州では日本同様,人口減少から移民を受け入れて行くことが必要だとされている。しかし、社会の主導権は渡さず、移民もその子孫も不満を持たずにいつまでも低賃金労働に従事していてほしいというのは虫のいい注文だ。欧州の低賃金労働も本国での生活に� ��べれば上等だと実感できる移民一世ならともかく、欧州で生まれ育った移民二世,三世らは、その社会の中での相対的な貧しさに押し込められている自らの境遇に不満を持つ。
社会内の棄民とされた人びとが異議申し立てを行うのは当然である。民主主義やら人権尊重やらをうたっている社会であるなら異議申し立ては行うべき義務である。多大な犠牲を伴いつつ市民が権利を主張して民主主義を勝ち取った社会は、各人の権利の主張によって受け継がれ支えられる。だが…という言葉が聞こえる。「権利の主張は認めるが,いきなり暴力を用いるのは駄目だ」と。「暴力を用いて問題を顕在化させなければ,聞く耳さえ持たなかったではないか」という声も聞こえる。
ホワイトバンドというものが流行っている。アフリカな� ��世界の貧困問題に関心があることを示すシンボルだという。「へえ、いいお考えで。で、あなたは次に何をやるんですかい?」とホワイトバンドをつけている人に問うてはいけないらしい。例えば,自分の生活レベルを引き下げて浮いた金をどこかに寄付するなんてことを期待してはいけないのと同様,欧州がアフリカなどの貧困対策に予算を振り向けるわけではない。アフリカ各国の債務の削減をしようと日本などを巻き込もうとするのがせいぜいである。アフリカを植民地にしてさんざん収奪してきた欧州が,債務を削減されて、ゆとりの出たアフリカで商売しようとの魂胆が見え透いている。
民主主義なり人権なりの理念を高く掲げる欧州国家が,その理念は自分たちにしか適用されないという但し書が密かにあることを示す 事例には事欠かないが,最新の事例がフランスでの暴動であると見た方が良さそうだ。
民間開放のアナ……(11/19)
パキスタンなど西アジアでの地震では、日干しレンガの壁の家が崩れて被害を拡大し,ビルでも耐震建築がなされていないため倒壊する惨事が珍しくない。世界でも有数の地震国である日本では,阪神大震災で多くのビルが地震に耐えられなかったことから建築基準法が改正され,少なくとも新設されるビルについては耐震性は高まったとされた。しかし、落とし穴があった。手抜き…。
建築における手抜きの理由はコスト削減と工期短縮であると以前から言われてきたが,神戸で倒壊したり亀裂が入ったビルを見せつけられても,日本の建築に携わる人々の意識を変えることはでき なかった。問題は、手抜きがどこまで広がっているのかだ。構造計算書を偽造した姉歯建築設計事務所と偽造を素通りさせ建築確認をした民間検査機関「イーホームズ」だけのことなのか、それとも民間検査の実態とはこんなものなのか。さらには施工の現場では手抜きはどうなっているのか。信頼の上に成り立っている制度で,ずさんな実態が暴露されると,不安は広がるばかりだ。
「民間でできることは民間で」と主張する人々がいる。親方日の丸の国鉄がJRに変わってサービスが良くなったと都会に住む人は言い、民営化を是とするが,JRになって都市住民には便利になっても,地方に住む人々にも便利になっているとは限らない。民間企業となれば,儲かるところに力を入れ,赤字の部分は切り捨てるだけ。つまり安全性など� ��けにつながらない部分にシワ寄せが行く。「民間でできること」には採算面で限界がある。
民営化を論じる時には,受益と負担の線をどこで引くか、公共サービスのあり方を明確にする必要がある。赤字でも誰かがやらなければならないこと、採算重視ではできないことは公共サービスとしてやらざるを得まい。時代の変化とともに公共サービスのあり方も変化しよう。それを検証するところから民営化論議は始まる。赤字だからとむやみに民営化すると,採算重視で人減らしやサービス削減,果ては安全性など見えない部分が切り捨てられかねない。
建築物の耐震性確保は、地震国・日本では必要だ。住む人ばかりではなく,地震で倒壊するかもしれない建物の周囲に住む人,さらには通行人として誰でもどこでも巻き添え� ��なる可能性がある。建築確認の民間開放のツケが、震度5程度で倒壊するビル群の誕生だったとすれば、一部の民間企業の利益と引き換えに、この社会は安全性を手放したことになる。これも自己責任とやらなのだろうか。
放送とネットの対立……(11/6)
楽天がTBSに経営統合を迫っているが、ここでも「放送とネットの融合」が大義名分の一つに挙げられている。ライブドアとフジテレビの騒動の時にも持ち出された、一見解りやすそうな「放送とネットの融合」、しかし、その中身は具体的には漠然としたままだ。
その内容として例えば、(1)過去に放送したドラマなどを蓄積しておき,視聴者はいつでも呼び出して、それらを見ることができる,(2)ドラマなどで出演者が身につけている 衣服,小物などを即時的にネット通販で購入できる,(3)クイズ番組や討論番組などで視聴者参加がしやすくなるーーなどがいわれている。
一方では、1)著作権料を払ってもペイするほど視聴者は過去のドラマなどを見たがっているのか、2)例えば,膨大なTBSの放送済み番組を楽天のサイトから見に行くことができるようになったとして、それほどの広範な需要があるのか、3)ドラマの途中で視聴者の関心が,出演者の衣服や小物に行って買い物ページに飛ぶような番組に魅力があるのか。番組連動の通販が可能だと言う前に、番組としての魅力が乏しければ視聴者が集まらない、4)電話,FAXなどで既に視聴者参加は可能だーーなどの反論が出ている。
そもそも、ながら視聴も含め受身で見ているテレビ視聴者と, 意識的に見に行くネット利用者を同列にとらえられるのかという点をよく考える必要がある。ネット利用者が見たいと思う番組に絞ってネットで提供するならビジネスとして成り立つかもしれないが、それがどういう番組なのかは誰も知らない。
「放送とネットの融合」に関してマスコミに浮上していない問題が地上デジタル放送だ。光ファイバーなどが普及すれば,地上デジタル放送はネットで配信できるとされる。つまり、毎日の放送自体をネットでも同時に行うことができる。過去の番組ではなく,その日の番組で「商売」できるようになる。おそらく「放送とネットの融合」の効果は、そこから出て来るだろう。
しかし、テレビ受像機の買い換えや大型タワーのような送信設備網の整備など膨大な需要と絡むので、許認 可事業のテレビ局(親会社の新聞社も含め)は地上デジタル放送には触れない。楽天なども、総務省を刺激することを恐れるのか,地上デジタル放送には触れない。
百万円もあれば必要な機材は揃うので、ネット上に「放送局」を作るのは簡単だという。楽天の資力があれば毎日、ネット上に独自のコンテンツを流通させ,自前の「放送局」を作ることができただろう。ニュースは難しいかもしれないが、ドラマやトークショー,ライブなどの歌番組,旅番組,料理番組、パソコンの新製品や新車など各種の情報番組などを制作プロダクションと組んで流し,蓄積して行くことはできただろう。しかし,楽天もライブドアも自前の番組コンテンツを作ろうとは動かない。
なぜ、ネット企業は放送局を欲しがるのか。本音は,放送 局の持つ社会的信用・信頼感を欲しがっているのかもしれない。株価頼みの「虚業」から「実業」へと軸足を移したがっている、つまり,ネット企業だからこそネットの世界内での商売の先行きが見えているとの見方だ。
どのようにサンゴが再生しない
若者気分……(10/30)
「若い頃に共産主義にかぶれない奴は馬鹿だが、大人になってもかぶれている奴はもっと馬鹿だ」なんて言い方がある。「転向」した大人の言い訳だが、人間社会の現実が見えてきた実感による言葉ともいえよう。今の若い奴はどうなのか。少なくとも共産主義は彼らにとってもう理想ではないようだ。
改革の名の下,企業の従業員解雇がしほうだいとなり、失業率が上昇したが,正社員の新規採用も抑制され,若者の失業率は10%にも達するという。スキルを身に付けようにも就職できない若者もあり,彼らはこの先,所得格差の拡大は当然,おそらく階層の固定化にもつながろう。一方では例えば世襲議員が増� �するなど,銀だか銅だか知らないが、スプーンを銜えて産まれてきた連中との差は開くばかり。
こうした中,若者から「職よこせ」のデモが起きるわけでもなく,黙って,されるがままになっているような印象だ。個々に不満は持っているはずだが、社会に対する関心がないようにも見える。なぜか。(1)若者の不満を表現として組織化するものがいない、(2)学校でイジメなどの洗礼を経た若者は、突出することを嫌い,浮かないようにすることが習性の一部になっているので、自己主張を自己抑制する,(3)選別されることを当然と受け入れているので,社会構造からくる選別も,個人の問題と認識する。
先の総選挙で、20代では自民党支持が多かったという。共同通信の出口調査によると,比例代表の全国11ブロッ� ��別投票行動で,20代前半は北海道を除く10ブロック全てで自民党が最多だったという(東京新聞)。彼らが、例えば郵政民営化法案を理解した上で自民党を支持したとは見えない。刺客騒動などを面白がって強い方に乗ったという印象だ。
社会に関心がなくなったとしても,小さな世界に生きる若者にとって,年金の未払い増加に見られるように負担増は大きな問題だろう。膨大な国家財政の赤字のツケを回されるのは若者世代なのだし,年金制度が破綻すれば,彼らは老人になってから自己責任を問われて,放り出されるかもしれない。自ら蒔いた種と言えばそれまでだが、「見捨てられた」若者の不満がこの先どのような形で現れるか。社会の変革を求めるか,個人利益を最優先にモラルの破壊も辞さないか,期待半分,不気味� �半分だ。
和が強調されるなど同調圧力の強い日本社会だが、一方では自己判断・自己責任の自由競争を自明とする傾向が強まった。和と自由競争、この二つは矛盾するものだが,和を求めれば自由競争だと言われ,自由競争のつもりでいたら和と言われるなど、その矛盾は個人に押し付けられるのが実状。つまり、カモはいいように食われるだけだ。今の若者はカモになるように育てられたのか。
温暖化……(10/14)
夏の暑さに地球温暖化を危惧してみたものの、紅葉の季節ともなれば、温暖化のことなどすっかり忘れ,青森が見ごろだ,鳴子峡が見ごろだ,磐梯山だ,日光だと、すっかり行楽気分。喉元過ぎれば熱さを忘るの例え,秋には秋の温暖化現象があるはずだが,そんなものには気が回� �ない。
温暖化なら肌に感じて思い知らされるが,実感薄く気付きにくい政治の変調。大量に湧いて出た小泉チルドレン、馬鹿にしつつ見るにはいい「絵」とばかり、マスコミは追いかけ回す。視聴者も,センセを笑って見下す分には自らに実害なしと済ましているが,国歌・国旗法の前例あり,ぽんぽん可決される新法のツケがやがて回されて,強制,監視,負担増のオンパレード。自己責任で選択したはず,結果責任だと,逃げもならす,押し付けられる。センセを笑っているうちに,抜き差しならず,身動きできず,せめて願うは孫子の代まで先送りされること?
いつか来た道と暗い顔して言う連中は、頼まれなくても何度でも,同じ馬鹿をやるのが人間,繰り返すのが歴史だとは口にできない。それを言っちゃあ訳知り� �もできなくなる。やることに時代の彩取りあるものの、愛し合い憎み合い、競争したり妬んだり,時には、お命もらいます,国のためか自由のためか、はたまた神か民主主義、持ち出す理由に事欠かないのが人間社会,正当化できないことはほとんどなし。非難されれば自分の主張、ただそれだけを繰り返すがよい。あとは力。道理だって理由があれば引っ込みます。倫理なんかも,秋の夜長の虫の音に似て、寂しき中でかすかに響き,一層あわれを引き立てます。
時代は変わる,変わったのか? 方向がらっと変わったものの、騒ぎを振りまく偏向教科書、この教科書をいつかまた,孫子の代に墨塗りするのか。国を愛する気持だって、強制されて歌わされては、面従腹背、サッカーチームを応援するのとちと違い,聞こえませぬ� ��伝兵衛さん、愛国心の旗ふり連中の命令なんか。さあ若者よ銃をとれ,やっと、そんな世になった。ところが笑止、止まらないのが少子と進む高齢化、若年層が少なくて、傭兵頼みの日本軍?
日本の変革,それは、静かに衰退するか,それとも広く門戸を開放、混血日本を作り出すか。あうんの呼吸,和をもって、仰げば尊し祖先の恩と、人口減少,それでも神国・ニッポンよいとこ、温泉あるし,おコメもあると一人ごち,参る者なき墓に入るをもってよしとするか。それがいやなら,多少どころか多大な摩擦,それもやむなし、祖先を辿れば日本人、大陸,半島,南の島から流れ着いた面々と元から住んでた人間の混血,繰り返すのが歴史だと,笑って開国。新しき日本の姿,語れよ政治家。
ブロッコ リー……(10/7)
ある日のお昼,昼食のサラリーマンで混み合う都内・本郷にある中華料理店、事務職らしき中年女性のいるテーブルに後から青年が案内されてきて、相席となった。青年は「イカの辛味炒め定食」を注文した。
5分ほどして「イカの辛味炒め定食」が運ばれてきて,中年女性が軽くうなづき、自分の前に置かれた定食を食べ始めた。料理とり用の大きなスプーンでスープを掬い,気取った素振りで小指を立てて口に運ぶ。次いで皿の料理に箸をつけたところで店員が「レディース定食」を運んできたが,それを見て中年女性,アッと声を発し,「どうしよう。食べてしまった」と小さな声で店員に言う。店員は「いいですよ」と「イカの辛味炒め定食」を引き上げ,代わりに「レディース定食」を置 いた。
この「レディース定食」、各定食の料理の量を少なめにしてデザートを追加したメニュー。中年女性の選んだものは「牛肉とブロッコリー炒め」だった。皿にはブロッコリーが目立ち,イカは入っていない。一目で区別がつこうというもの。
青年は同じ定食を中年女性も先に注文していたのだろうと、見るともなしに見ていたが,自分の注文した料理を横取りされて"食われて"しまったにもかかわらず、怒る気にもなれない。いや、声こそ出さないが笑っている。
中年女性はもう顔を上げられず,目線は下に向けたまま、前と同じようにスープをスプーンで掬い気取った素振りで小指を立てて口に運び,フランス料理のスープを飲むように飲み,丁寧にスプーンを置くと、箸を持ち,ブロッコリーをつまみあげて� ��に運んだ。
午前中に会社で何かあって気もそぞろだったのか、個人的事情で頭がいっぱいだったのか、それとも何を注文したのか度忘れしたのか。誰も確かめたわけではないので事情は本人しか知らない。ただ青年の目には,中年女性が深刻な考え事をしていたようには見えず,むしろ、「イカの辛味炒め定食」をしっかり確認して食べ始めたと見えた。サラリーマンで混み合う中華料理店で気取った素振りの食べ方…、そのミスマッチが青年の目を引いたのだが、注文した料理を間違えるトボケ加減と気取った素振りの落差が印象に残った。
あとから青年は、中年女性がなぜ料理を間違えたのか考えてみた。(1)よっぽど、お腹が減っていたので,出されたものに見境なく手を出した、(2)相席になった青年に中年女性� ��雷に打たれたように一目惚れし,他のことが頭から消えた、(3)イカを見て急に食べたくてたまらなくなった、(4)後から来た青年よりも自分の方が先に食べ始めたかった、(5)イカとブロッコリーの区別を知らなかった。真相はどれか。青年は見てはいけないものを見せられ,聞いてはいけない問いを背負わされたような気がして、いささか気分に影が差した。
みんな一緒……(9/25)
カトリーナ「2大政党が交互に政権を担うようになるのが理想であるかのように言われてきたけど,本当かしら? 2大政党化は主権者の選択肢を狭めているだけじゃないの?」
リタ 「民意をより反映できる選挙制度だったら,今ごろ国会では多くの政党が連立の組み替えで政権争いをしていたかもしれない。それを混乱と見るか、民意の反映と見るか。外交では対米追従なのに,日本の国会までアメリカを真似て2大政党にならなければならないのかしらね」
カトリーナ「2大政党といっても、政権選択を突きつけられると不安になる主権者も多いらしくて,今回の選挙でも安定を重視して自民党に投票したと言う声が結構あった。自民党への支持というより生活保守主義� �勝利、逆に言うと生活への先行き不安が根強いということかしら」
リタ 「その生活の先行き不安をもたらした責任が、どの政党に一番あるかを考えれば,投票行動も変わってきたのにね。でも、2大政党のイメージに縛られて一方的に損したのが民主党。政権党批判の野党に徹しきれず,中途半端に政権担当能力を示そうとして自民党と同列にと背伸びしたものの、足元のあやふやさが丸見えになってしまった」
カトリーナ「生活保守主義は自民党だけに関係するものじゃない。社民党などの、いわゆる護憲政党への支持も生活保守主義の表れといえるんじゃない? 武器を持った自衛隊が海外展開するようになったという現実から目をそらし、『憲法9条を護れ』と言って誤摩化している。現実追認をする必要はないけど� �制度としてもう空洞化している憲法を『護れ』という主張に何の意味があるのかしら?」
リタ 「護憲を保守しているってところね。広範な生活保守主義を取り込んだ自民党が安心して『改革』を主張するのと対照的。いつごろから護憲が時代に遅れたのかしら?」
カトリーナ「70年代。敗戦後の総体的な貧しさをバックに体制批判政党は勢力を拡大したのだけれど,高度成長を経て徐々に生活水準がアップし,貧しさは相対的なものへと変質した。そこで政権批判勢力・政党は軸足を護憲に移したというわけ。60年代にはまだ体制の変革が争点になったけれど,多数がそこそこ『豊か』になった70年代には、労働者だって『豊か』になった生活に基づく生活保守主義に取り込まれた」
リタ 「つまり護憲も,現在の生活 を変えたくない,脅かされたくないという意識から出ているというわけね。確かに戦争は生活を破壊するから、その感覚は正しいのかもしれないけど,護憲にすがっていて本当に生活を護ることができるのかしら?」
カトリーナ「つまり、自民にしても反自民にしても生活保守主義にとらえられ、変革・改革すべきことから目を逸らしているってところかしら」
国民投票……(9/19)
今回の総選挙を郵政改革法案を巡る国民投票と見ると、全国規模での国民投票の可能性が見えて来る。例え"風"に動かされる主権者が多かったり、問われていることの内容を知らない主権者が多かったとしても、国民投票は代議制の機能不全を補う有効な制度であろう。
さて、このページでは選挙の度に政� �別の得票数を検証しているが,今回もやってみた。
まずは比例区。全国合計投票数は6781万票余(投票率67.46%)。政党別得票数で180議席を割り振ると(カッコ内は実際の議席数)、自民党68.7議席(77議席)、民主党55.8議席(61議席)、公明党23.9議席(23議席)、共産党13.1議席(9議席)、社民党9.9議席(6議席)、国民新党3.1議席(2議席)、新党日本4.4議席(1議席)、諸派1.2議席(1議席)となる。
現行制度が小規模政党に不利であることがよく解る。各党別の得票率は、自民党38.12%、民主党31.02%、公明党13.25%、共産党7.25%、社民党5.49%、国民新党1.74%、日本新党2.42%、大地0.62%。得票で見ると,自公合わせて過半数がやっとという実情である。
次に小選挙区。全国合計投票数は6806万票余(平均投票率67.51 %)。全国合計の政党別得票数で300議席を割り振ると(カッコ内は実際の議席数)、自民党143.3議席(219議席)、民主党109.32議席(52議席)、公明党4.3議席(8議席)、共産党21.8議席(0議席)、社民党4.4議席(1議席)、国民新党1.9議席(2議席)、新党日本0.6議席(0議席)、無所属14.3議席(18議席)となる。
自民党が"大儲け"したことがよく解る。反対に民主党は半減したし、共産党への投票は全て死票となった。各党別の得票率は,自民党47.77%、民主党36.44%、公明党1.44%、共産党7.25%、社民党1.46%、国民新党0.64%、日本新党0.20%、諸派0.02%、無所属4.76%。
比例区と選挙区の得票を見ると,公明が小選挙区では全国で98万票余しか出ていないのに,比例区では899万票弱も出ている。つまり800万票は小選挙区で自民党候補� ��上乗せされたと推察できる。今回の選挙で自民単独で296議席と他党を圧倒するが,公明党(創価学会)の支援がなければ、いくら小泉がスタンドプレ−を繰り返しても、単独では政権を維持できなかったであろう。
得票率と実際の各党の議席数を比較すると、「民意の反映」を念頭に現行選挙制度を"改革"すべきである。1票の格差も拡大しているのであるから,このままでは「日本は民主主義国」との評価も霞むぞ。
政党ゲーム……(9/9)
国政選挙の時に人物本位で投票しても、議員は国会では政党の決定に従って動く。郵政選挙の結果,伝えられるように自民党が圧勝すれば,議員が政党の決定に反して行動することはますますできにくくなる。つまり、主権者は政党本位で投票するしかない。 しかし、国政選挙では二大政党化が進むほど選択肢は少なくなる。簡単に言うと,自民党と半自民党のどちらかだけ。つまり誰に投票しても大差はないから,人気投票みたいなもので主権者も選挙を"遊ぶ"しかない?
そこで、せめては新しい政党を考えてみよう。まず政党名から。
「愛」「愛国」「明るい」「アジア」「維新」「一揆」「一心」「インターナショナル」「宇宙」「栄光」
「改革」「階級」「改憲」「改進」「階層」「解放」「変えよう」「革新」「覚醒」「革命」「風」「家族」「神」「環境」「がんばれ」「議会」「希望」「急進」「救国」「救世」「窮民」「救民」「共闘」「共産」「共同」「協同」「共和」「義友」「義理」「国」「くらし」「軍国」「敬神」「敬天」「決死」「元気」「健康� ��「建国」「憲法」「権利」「公」「皇国」「工作」「行動」「合同」「交流」「国際」「黒色」「護憲」「個人」「個性」「国家」「皇国」「国民」「根性」
「桜」「鎖国」「刷新」「サラリーマン」「敷島」「自主」「資産」「至誠」「自然」「時代」「市民」「社会」「自由」「主義」「純」「純粋」「女性」「常民」「庶民」「新」「神国」「新進」「真実」「新生」「新時代」「新体制」「新党」「新風」「進歩」「人民」「真理」「スポーツ」「生活」「生活者」「正義」「政治」「清心」「青年」「制覇」「赤色」「赤心」「前衛」「全国」「戦時」「前進」「全体」「戦略」[造反」「草莽」
「隊」「大」「大義」「大衆」「体制」「大地」「大同」「太陽」「団結」「地」「地球」「地域」「月」「つくる」「 つくろう」「抵抗」「帝国」「天」「天誅」「天皇」「電脳」「天命」「統一」「道義」「同志」「統制」「同胞」「独裁」「独立」「特権」「友」
「仲間」「仲良し」「人間」「人情」「農業」「農民」
「薔薇」「反」「反戦」「反帝」「光」「非常」「非常寺」「聖」「平等」「貧民」「福祉」「富士」「不二」「復古」「富裕」「文化」「平民」「平和」「変化」「布衣」「放任」「保護」「保守」「報国」
「誠」「水」「民主」「民衆」「民族」「緑」「未来」「みんな」「無政府」「謀反」「もののふ」
「大和」「友愛」「憂国」「友情」「遊行」「夢」「翼賛」「世直し」
「ラジカル」「理想」「立憲」「リベラル」「緑風」「倫理」「ルンプロ」「連合」「連帯」「労働」「労働者」「労農」「 老人」
「若い」「若者」「和合」など
これらの言葉を組み合わせ(助詞や地名,「党」「会」「クラブ」「ネットワーク」「会議」「日本」は自由に使用可)、政党名を決める。分かりやすく一つ一つの言葉をカードに書いて組み合わせてもいい。
同様にして,政策もカードの組み合わせで決める。次に同様に立候補者を決める。
待てよ,これはゲームになりそうだ。トランプ様のカードにして、それらを組み合わせて政党名を決め,政策を決め,立候補者を決める。遊び方は,参加者全員に順にカードを配り,参加者は手持ちのカードの組み合わせで政党名、政策、立候補者を決め、その優劣を競う。全てのカードを配り終わったところで,次には順に不要なカードを捨てる。その捨てカードを他の参加者は得る� �とができるが,その際は代わりのカードを1枚捨てる(麻雀的)。
優劣を決める役をどう作るかが,ゲームとしての面白さのポイントだろう。例えば,政党名で人気の高い「自由」「民主」などを最高位として,順位をつけることも一つのやり方だろうが,現実追認ではゲームの面白さは薄れる。いっそ、カードの隅にA、B、C、D、E、Fとつけておき、参加者にカードを配り終わったところで親がサイコロを振り,Dは1点,Aは2点などと決めて,カードを捨てながら他の参加者の捨てカードを拾って手作りをする。ジョーカーをどう設定するかなど細部の詰めが必要だが、このゲームは,受け身で眺めているだけの国政選挙より楽しいかもしれないぞ。
専門家の引き出し方法は何ですか
巨人よ、ひよわるな!……(8/25)
暫くナイター中継を観ていない間に読売ジャイアンツの出場選手の顔ぶれが変わっていた。名前も顔も、巨人ファンではない人には"見覚えがない"選手ばかり。世評によると、タイトルホルダーなどの選手はいないが、走攻守揃った若手主体なのだという。
セリーグでは走攻守のバランスのとれた阪神、中日に優勝争いは絞られた感があるが、それに刺激を受けてか読売ジャイアンツも同じようなチームカラーを目指すのか? しかし、それは「優勝を義務づけられている」と自覚する読売ジャイアンツの正しいあり方だろうか?
ノーマークの今は若手選手が活躍できたとしても、来シ� �ズンは各チームとも研究して来る。若手が成長して優勝を争うことのできるチームに読売ジャイアンツがなるのには数年を要するだろう。それとも、「常勝巨人軍」なんてことを二度と言わないと決めたのだろうか?
各チームのエースやクリーンナップのFA選手を大金で集めるのは読売ジャイアンツにしかできまい。生え抜き選手が弱体でも毎年、優勝を狙うのなら、それが有力な方法だ。これまFAで集めたスター選手が期待通りの活躍を見せていないのは、おそらくマネジメントに問題がある。活躍しなくても大金を手にできるような契約内容だから、足許を見られていた可能性がある。
地道に走攻守揃った選手を育てるという野球を読売ジャイアンツが目指すとなると、日本のプロ野球はますます、観ていてパッとしないも� ��になりそうだ。今のドラゴンズのように、じっくり観ると、いいプレーの連続で野球(スポーツ)の味わいを楽しませてくれるのはいいが、打席に立つ清原への大きな拍手に見られるように、ファンは職人業のナイスプレーだけを求めているのではない。
巨人よ、己の道を貫け。FA制度は巨人のためにあるのだから、各チームのエースやクリーンナップをもっと集めて、そうしたスター選手をつなぐ若手選手がいるというチームを作れ。各チームとも同じようなチームカラーでは、つまらないぞ。FAで集めても、期待外れ? そんな選手をいつまでも抱え込んでいるから、チームが色褪せるのだ。期待外れのFA選手は、どんどん放出すべし。FA選手の「上がり」の場に読売ジャイアンツをしてしまったことが落とし穴だったのだ。
� ��途半端に反省などせず、FAのスター選手を巨人は今後も、毎年、いっぱい集めるべし。
ライフ・イズ・ミラクル……(8/20)
人間がごちゃごちゃ入り交じって、動物も人間の生活の中にごちゃごちゃ入って来る。それぞれ勝手に動き回り、ごちゃごちゃの渦を掻き立てる。
エミール・クストリッツア監督の映画は以前からそうだったが、最新作「ライフ・イズ・ミラクル」では、そのごちゃごちゃぶりに拍車がかかり、現実と夢想さえもごちゃごちゃと入り混じり始めた。
こう書くとクストリッツア映画を観たことのない人は、混乱していて理解することが難しい映画と勘違いするかもしれないが、それは大間違い。陽気な音楽に溢れた画面で人々は語り合い、愛し合い、食べ、飲み、闘争さ� ��もゲームのようにこなし、生きていることを謳歌する。それを観ているだけでも楽しむことのできる映画に仕上がっているのだが、民族が共存を目指したり、殺し合って分裂したりの歴史を繰り返してきたバルカン半島の中央部、ユーゴスラビア(現在、正確には旧ユーゴスラビア)の監督だけに含意は十二分、映画は様々に解釈できる。つまり重層的な楽しみ方ができる映画であり、そうした作品を作ることのできる監督なのだ。
話を戻して「ライフ・イズ・ミラクル」。舞台はボスニア。時は戦争が始まる前後。セルビア人の男とモスレムの女が愛し合い、引き裂かれる。民族意識がクソであることを暗示するのだが、メッセージ色は薄い。それは、「解釈をどうしようと、人間は変わらない」「平和の尊さをいくら訴えようと 、時が経つと人間はそれを忘れ、殺し合いを始める」という歴史を見据えたリアリズムに立脚した視点で作られているからだ。後悔先に立たずを繰り返すのが人間さと言いながら、人は、生命は愛おしいと謳い上げる。
現実にはボスニアで多くの人間が死に、コソボでも死に、NATOの空爆でも死んだ。数多くの悲劇が彼の地では語られているだろう。クストリッツア映画はリアリズムではない。ある種の寓話であり、生命の讃歌である。それは多くの死を踏まえた上での、生命讃歌の物語である。
お目こぼし……(8/11)
自民党は郵政民営化法案に反対した同党衆院議員37人が立候補する選挙区全てに対立候補を立てるとして、具体的な名前が取り沙汰されている。様々な権益目当てで議員が集まっていた� ��来の自民党から、政策を共有する議員の集まりという新しい自民党像を選挙では訴えるらしい。ホントに自民党がそうなるのかしら?
郵政民営化法案は衆議院では僅差で可決され、参議院では予想を超える差で否決された。自民党の造反議員は衆議院だけではなく参議院にも存在する。選挙で争点を郵政民営化に絞り、小泉有利の対立構造を演出しようとしているが、衆議院での造反議員の切り捨てを進めるにつれて、参議院の造反議員はどうするの?という疑問が出て来る。
次回の参議院選挙の時に公認しないとでも自民党はするのかもしれないが、わかりにくいなあ。郵政民営化法案を否決したのは参議院で、自民党執行部から見れば、造反議員の罪は衆院議員より参院議員の方が重いはずだ。政策中心の新しい自民党に� ��行するという方針が選挙対策にすぎないのならともかく、郵政民営化が自民党の方針であるのなら、参院の造反議員に離党勧告あるいは除名処分をすべきであろう。
総選挙で小泉自民党が勝ったとしても参議院の構成には変化はない。つまり郵政民営化法案を出し直して衆議院で可決したとしても、参議院で可決される可能性は低い。総選挙で小泉自民党が勝てば(衆院の造反議員が落選すれば)参院の造反議員は考え直すだろうと執行部は期待しているらしいが、造反議員を除名した場合は彼らは新会派を組み反対に回るだろうから、参院の造反議員に対して小泉執行部は牽制しつつ刺激しないように振る舞い、総選挙が終わってから除名処分をちらつかせて取り込みを本格化するというところか。
政策本位の政党に自民党� ��変化するという謳い文句がもう、ほころびかけている。いや、小泉自民党に有利だから言い出しただけで、まともに信じている自民党員はいないし、選挙に勝つためには綺麗ごとなら何を言ってもいいというのがホントのところか。
衆院の造反議員への仕打ちを見て、参院の造反議員の中には内心震え上がっている人もいるだろうな。今、執行部から離党勧告なり除名処分を持ち出されれば、反発してみなければ造反の意義もないから反発するだろうが、総選挙で小泉自民党が勝てば、「法案が修正された」「付帯決議がつけられた」とかを口実にぞろぞろと賛成に回るだろう。つまり、今は参院の造反議員については双方から何も言わないというのが暗黙の了解事項なのである。野党がそこをうまく突いて自民党の中の騒ぎを煽り 立てることができるか、そこも見所だ。
共通する価値観はあるか……(7/29)
中国、韓国で反日感情の高まりが伝えられ、日本国内では歴史を情緒的に捉えて自尊心を回復しようとの動きが出てきている。これらをナショナリズムの高まりと捉えることもできようが、ナショナリズムだけでは,相互理解は深まらず,対立を先鋭化させる方向へしか進まない。3国ともに政府は、国内世論対策からナショナリズムを放置している。
欧州の歴史などに見られるように,隣り合っている国々で互いに嫌い合うのは珍しくない。戦争も繰り返してきた。日本は中国と2度戦争し,朝鮮半島にある国とは数度戦争をしてきた。そして,現在のナショナリズムの高まり…、ナショナリズムの不毛さを訴える政治家の� �在が3国ともに"目立たない"状況では、いつか不幸な歴史を繰り返すのかもしれない。などと、つい悲観的なことも考えたくなる。実際には、3国の経済的補完関係が緊密になり,日本が中国あるいは韓国と戦争を始めた場合の経済的ダメージは相互にかなり大きく,現実的には戦争はもう不可能だろう。
3国のナショナリズムは相互に対立する要素を含んでいる。ナショナリズムは愚かな政治家の逃げ込む場所だとの言葉があるそうだが、国内政治対策あるいは選挙対策でナショナリズムを容認する政治家らは、それぞれの国の行く末と,アジアの政治的状況を真摯に考えてはいないだろう。つまり、緊張の高まりのツケを払わされるのは,結局,各国の一般の人々である。
ナショナリズムの高まりは,日本、中国,韓国� �共有する理念がないことの反映でもある。歴史的に見て現代世界では、各国は民主主義の理念を共有すべきであろうが,3国の実際はどうか。日本は民主主義国と国際的には認知されているが、民主主義を本当に尊重している社会になっているのか種々の疑問が出されてもいる。政治家も民主主義の維持(実現?)にはあまり熱心ではないように見受けられる。中国は共産党の独裁国家である。韓国も国際的には民主国家と看做されているが,民主主義を声高く訴える国ではない。
日本,中国,韓国に共有する理念のないことが,現在の各国のナショナリズムの高まりを許している。文化的には共有する要素の多い3国に、政治的に共有する理念・価値観がないということが東アジアの不安定さの根本にある。世界経済の中に日本、� ��国,韓国ともがっちり組み込まれた状況では,アジア主義ではもうアジアはまとまらない。
どうすべきか。民主主義は万能ではなく,限界もある。しかし、東アジアにおいて対話の成立する基盤が希薄になっている現在,1国の国家主権を上回る理念・価値観の共有に向けて歩み出すとするなら民主主義を持って来るしかない。現実的には中国に民主主義を導入すると共産党独裁は崩壊するだろうから,中国は動きがとれまい。日本と韓国が,民主主義の理念を高く掲げて政治的に相互理解を更に深め,ナショナリズムを色褪せさせることから始めるしかない。
(以上は24日に書いたもの。以下は29日に書いたもの)
日本、中国、韓国が共有する理念として民主主義を持ってきたが、その民主主義には大きな不備がある。そ� ��は、自由選挙では、ナショナリズムを声高に主張する候補者にも当選する確率があるということ。さらには、民主主義を否定する候補者でも当選する可能性があり、議員になった彼らはやがては民主主義は非効率的だなどと言い立てたりしかねない。
民主主義は、人々が理性に基づいて適切な判断をし、適切な行動を行うという前提で成立する理念だ。しかし、人々が情緒的に判断し、必ずしも適切な行動をしないとなったら、民主主義は制度が整っていたとしても、機能しない。
話は振り出しに戻らざるを得ない。日本、中国、韓国が共有できる理念・価値観はあるのか。そもそも日本という国が持つ理念・価値観はあるのか。あるとすれば、それは何か。
戦争も民営化……(7/18)
郵政民 営化が国会で論議されているが、世界では戦争さえ民営化されている。戦場で軍事力を提供する会社や軍事訓練を担う会社は傭兵会社として以前からあったが、基地の警備や兵士の食料、物資補給など幅広い軍関連業務を請け負う民間会社が出てきた。世界での市場規模は約1千億ドル(約11兆円。by朝日新聞)に達し、今後もっと"成長"すると見込まれている。
民営化とは何だろうか。"親方日の丸"で非効率の仕事が続き、赤字補填を税金で行わざるを得ないから、民営化して効率化・スリム化して独立採算でやってもらい、税金で赤字補填することを止める……といったイメージだろう。しかし、冷静に考えるなら、公共サービスとして赤字でも国家がやらなければならないこともあるはずだ。例えば、JR只見線。豪雪地帯で冬� ��は道路が遮断されるため地域住民の生活の足確保に欠かせないと、赤字の超ローカル路線だが廃線とならずに残っている。JRという1民間会社を超えたところで存続の決定がなされたものだろう。
軍隊もそうした公共サービスの一つなのか、つまり採算性という観点からは"赤字"だが、必要だとして国家が維持しているものなのか。それとも民営化できる部分は民営化した方がいいのか。J・オーウェルの「1984」に描かれた、持続して戦争を続ける国家体制なら軍隊の存在価値は理解しやすいだろうが、実戦を経験しないまま退役する軍人が大半という状況では、必要ないんじゃない?という声も出てこよう。
軍隊における採算性とは何か。他国からの侵略がないことを軍隊の抑止力の成果と看做して、軍隊を持つことを正当 化する考えが一般的だろう。それが膨大な軍事費支出を支えているのだが、高コスト調達にもつながっている。費用対効果という観点から軍事費を検証することも、軍隊があるから他国からの侵略を阻止し得ているという主張(信念?)を容易に覆しはできそうにない。何らかの数字を示され、それ以上費用がかかるなら防衛を諦め他国からの侵略も容認するなんて議論は、そもそも成立するまい。つまり、軍隊における採算性は"霧の中"に閉ざされている。
世界では民間軍事会社の活動領域が増え、きちんとした会社から怪しげな会社まで様々が活動しているという。世界の不安定化とも相俟って、数年後には市場規模は倍になるともいわれる。そのうち、ビジネスチャンスだと大手企業も参入、アフリカのどこかでトヨタ系の� �事会社とマイクロソフト系の軍事会社が代理戦闘をするなんて事態にもなりかねないな。
夏だ! コブラ祭りだ!……(7/2)
ブラックマンバという毒蛇で敵を倒す映画があった。ブラックマンバは世界三大毒蛇の一つとされる。他の二つは、キングコブラとオーストラリアに住むタイパン。これらを集めたコブラ祭りがこの夏、群馬県のスネ−クセンターで開催される。正確にはタイパンの到着が遅れる見込みで"揃い踏み"は遅れるそうだが、その代わりに世界各地から多数のコブラが集まるそうだ。ブラックマンバはもう到着しているという。コブラファン必見!!
蛇はなぜ気持ち悪いと見られるのだろうか。細長くてニョロニョロ動き、体に妙なテカリがあってヌルヌルしているように見える。� ��には毒を持っている蛇もいて危ない…。しかし、蛇の体表は乾いています。連中は地面を動き回るので、体表がヌルヌルしていたなら土やゴミがくっついてしまう。ニョロニョロ動き回るのは彼らの習性、ウサギに跳ねるなと言っても無理なのと同じ。毒については、用心すること。ハブはもちろん、マムシ、ヤマカガシでも咬まれた後、血清などを使った適切な手当てが遅れると危ない。
蛇には特別な存在感がある(嫌われ感?)。ここから、太古に人間の祖先と蛇の祖先が殺し合いをやった歴史があって、その潜在意識に残る記憶から人間は蛇を嫌うという説さえある。SFの範疇の話だが、嫌われるのが当然という状況では、犬のようなペットに蛇はなれそうもない。お食事の行儀が悪いから嫌われるのか。なるほど蛇はネズミ� ��を頭から丸呑みする。行儀よく座って食べることもないし、よく噛んで食べることもない。丸呑み…。子供のしつけによくない? しかし野生動物の食事に作法などない。どの動物が上品な食べ方か、なんて考えても仕方がない。
スネークセンターには熱帯蛇類温室、大蛇温室、毒蛇温室、採毒室、資料館などの施設があり、数種のニシキヘビ、ガラガラヘビやキングコブラ、ウミヘビなど各種の蛇が公開されている。数カ所ある野外放飼場には10万匹以上のシマヘビ、マムシがいるという。暑い日中にはあまり出てこないが、よーく見ると、いるぞ。おまけに、敷地内にあるレストランではマムシの唐揚げ、ミートボールなども味わうことができ、売店では蛇革のバッグなども売っている。正直言って各施設はかなりくたびれてい� ��し、観客用の冷房などはなく、最近のテーマパーク類に比べると、みすぼらしさはぬぐえない。また、ジャパンスネークセンターという名前にしては、展示されている蛇の数が少ないという印象もある。でも、この手作り感(やつれ方も含めて)が、いい味なのかもしれない。
蛇をよく観察すると、水辺に行って水を飲む様子、餌を食べる様子(1カ月に1回程度だという。小食な奴らだ)、周囲をうかがう様子など、蛇の個体差も感じられ、一つの命なのだと気付かせてくれる。興味のある人は「スネークセンター」で検索して下さい。
恐竜の絶滅は、致命的なウイルスに行う
負け戦の責任……(6/26)
トム 「私はトムです。私は日本語を学んでいます」
スージー「私はスージーです。私も日本語を学んでいます」
トム 「ここはどこですか」
スージー「ここは靖国神社です」
トム 「おお、ここがあの靖国神社ですか。戦争で亡くなられた人々を悼みます。でも、我がアメリカにかなうはずもないのに無謀な戦争を始めて、最初はともかく、我が国が本気になった後はズルズルと押されて、遂には無条件降伏をしたという戦争の敗戦責任を負う日本軍国主義の指導者らも祀られているという場所ですね」
スージー「この場所で、敗戦責任という言葉を使ってはいけません。日本人は先の戦争を敗戦とは認識したがりません。戦争は全て悲惨なものであり、� �争は全て悪であると考え、多くの日本人は自分たちも戦争の被害者であったと思っています」
トム 「なぜ、被害者だと日本人は思いたがるのですか。銃を持って中国大陸、東南アジア、太平洋諸島などに出掛けて行ったのは日本人自身じゃありませんか」
スージー「それは、抵抗もできないほど強力な軍部独裁政権に強制されて、しかたなく多くの日本人は銃を持たされ、外地に送り込まれたという歴史解釈を共有することで、無力であったとの言い訳が成り立ち、多くの日本人が安心して戦争の被害者になることができるからです。だから、例えば中国や韓国の人々が、被害者感情から日本を責めると、被害者感情に安住していた日本人は反発するのです」
トム 「確かに戦時体制国家の中では個人は無力かもしれませ ん。しかし、無力であったことと被害者であったこととはイコールではないと私は思います。むしろ、敗戦後に戦争の責任者追及を日本人自身が行わなかったことが、現在の歴史認識の混乱を招いているように見えます」
スージー「国家権力を相対化できるほどの個人意識が、当時の日本人にはなかったのでしょう。厳しい見方をするならば、アメリカに圧倒的に負けた無条件降伏だったから日本人は、無力感もあってアメリカを意識しつつ、被害者感情を持つことができたのかもしれません。極東裁判に対する感情的批判も、日本人の被害者意識をベースにしているようです」
トム 「This is a book。これは一冊の本です。1冊の本があることを認識する。悲しい内容か楽しい内容か、そうした主観的判断の前に、存在するもの、存在したものを正確に認識する。このような認識の仕方を、戦争、敗戦などについても日本人はないがしろにしているようです」
= = = = =
「アジア解放のために日本は立ち上がった」などと、日本が無条件降伏をした先の戦争を肯定的にとらえる人々がいる。そうした人々は反平和の傾向を持つと一般的には看做されてきた。しかし、それは逆である。無条件降伏という、世界に大恥をかいた負け方をした戦争を肯定的に見る人々は平和主義者であろう。好戦的な人々なら、負け戦の軍部指導者を決して許さず、その復権など認めず、ましてや、戦争の受難者であったなどとは� �めまい。敗戦責任ははっきりさせてもらいたいと考えるだろう。
A級戦犯が靖国神社に祀られていることが議論になっているが、負け戦となれば敵方に裁かれるのもやむを得まい。そんな覚悟もなしで軍人になったわけではあるまい。「生きて虜囚の辱めを受けず」などと兵隊を縛っておきながら、日本軍の指導者らが生き延びて裁判にかけられた光景は、何か妙だと感じさせずにおかない。
A級戦犯を靖国神社に祀ることは奇妙なねじれ現象に見える。無条件降伏をせざるを得なかった敗戦の責任を負う人々が、戦死者と同列に祀られるのは、戦争によるすべての死者を平等に扱うという平和主義的発想から出てきたものだろうか。まさかね。
戦死者と戦災死者と戦争受難者……(6/12)
「戦� �」のイラクから連日のように多くのイラク人の死が伝えられる。戦争が「終結」してから、いったい何人のイラク人が殺されたのか。彼らも戦争に伴う死者であることは確かだが、報道の扱いとしては事故死のようなニュアンスも伝わって来る。イラク版の靖国神社(戦死者のみを祀る場所)があったとしたら、彼らは祀られるのだろうか。
人は死んだ後、どうなるのか。肉体とは別に霊魂がある、肉体の死後も霊魂が残ると信じるところから宗教が始まる。多くの宗教は、霊魂は神の領域だとするが、神道は霊魂を生きている人間が管理し、時には、霊魂を移動させることもできるという。霊魂を思うままに扱うことができるとは、神道は生き残った人間に都合のいい宗教だな。
霊魂は祟るものと恐れられる。特に不遇な死� �方をした人間の霊魂は現世に思いを残していると看做された。気象などの知識が乏しかった昔は異常気象、天変地異を霊魂の祟りに結びつけて解釈することも珍しくはなかったようだ。
靖国神社には、天皇のために戦って死んだ者らの霊のみが祀られているというが、靖国神社のそばを通るたびに、「おい、霊魂が本当にあるなら、そこに集まっているなら、祟ってみろ」と言いたくなる。1枚の赤紙で招集され、アジア、太平洋の各地で悲惨な死に方をした人が多いであろうし、家族などに思いを残して無念の死を迎えざるを得なかった人も多いだろう。戦死者のすべてが天皇陛下万歳と信じきって自分の死を納得していたわけでもないだろう。しかし、戦死者の霊魂の祟りで大きな雷が落ちてきて大鳥居が粉々になったというこ� ��もない。
靖国神社を巡って議論が錯綜しているが、基本的な問題は日本(人)が戦死者の扱いについて社会的に曖昧にしてきたところにある。明治以降、戦死者は国家の戦争に駆り出されて死んだのだから、国家が祀るのが筋だと靖国神社を人々は受け入れたのだろうが、それは同時に戦死者を国家が「管理」する形にもなった。皇国史観の尾を引きずったままの靖国神社に戦死者をほぼ「独占」されている。国を誤った皇国史観の秩序に再び組み込まれては、戦死者の中にはさぞ無念に思う霊魂もあるだろうに。霊魂が本当にあるとすれば、戦死者は今、何を思うのだろうか。
坂口安吾は「天皇を最も敬っているように振る舞う連中が、天皇を最も利用していた」と書いた。その言葉を借りるなら、「戦死者を最も悼んでい� ��ように振る舞う連中が最も戦死者を利用している」ということか。
写真が語る……(6/3)
日本で、記憶喪失で身元を示す手がかりのない人物が現れ、それをメディアが報じ写真が公開されたなら、全くの天涯孤独で仕事にも就いたことがなく知り合いもおらず、山中か孤島に隠れ住んでいたという人物ならともかく、おそらく長くはかからずに素性が"割れる"だろう。
しかし、イギリスのピアノマンは、写真が大々的に報じられ、各国から情報がもたらされたにも関わらず、彼が誰なのか未だに確定しない。報道によると、彼は言葉を話さず、衣服のブランドタグなども切り取られていて、身元を推定するものは何もないという。
疑問点はいくつかある。公開された写真がスチール写真のよう� ��のはなぜか。正面からの顔写真でもなく、複数のスナップ写真でもない。また、限定された写真だけを公表し、その後の追加の写真公開もない。ピアノマンのイメージをコントロールしようという意図が感じられる。写真以外に、例えばピアノ演奏の録音を公開するなり、衣服など"発見"された時の状況をより詳しく明かすなど、本気で身元を調べようとするのなら、より多くの情報を提供するのが当然だろう。
ここからピアノマンはヤラセであるという見方が出て来る。何のためか。映画やTVドラマの事前プロモという説、ミステリーサークルのように世間の騒ぎを楽しむための仕掛けという説、発売予定のピアノマンのCDを売るための変則PRという説、ピアノマンを保護している施設への注目を集めるためという説など。うがっ た説として、ピアノマンはどこかの組織から命を狙われており、存在を世間にアピールすることで手を出しにくくして身の安全を保ったという見方もある。この説が本当なら、海岸で見つかったということも含めて全てが作り話ということになりそうだ。
ピアノマンの写真は、味わい深い、いい写真だ。ストーリーが漂っている。立ち姿といえば日本でも1枚の写真が注目された。風太だ。こちらは身元に不審なところはないが、すっくと立つことが珍しいと人気を集めた。以前に猫が立っている写真が人気を集めたが、風太が立つのはヤラセではない。ピアノマンと風太、写真は多くのことを物語る、時には嘘も含めて。
検定狂想曲……(5/22)
ゴマ「日本の検定制度ってのは、えらい評判が悪いそうだ� �
ハエ「曲がったキュウリがはねられるなど、日本の検定制度は厳しいからな。多少見栄えが悪い程度でも、ダメ。味は同じだと言っても、消費者、特に都会の消費者が買わないそうだ。わざわざ注釈でもつけなければ、店先にも置いてもらえないという」
ゴマ「それは商品検査で、検定とは違う」
ハエ「同じことさ。誰かが規格を作って、その規格に合わなければダメ、はねられる。買って欲しければ、規格に合うように作れ、選別しろってことになってしまう。野菜同様、人間だって不揃いなんだ。見た目だけじゃなくて、精神もいろいろな形をしている。そんな不揃いな人間を、国が設定した規格に合うように作り直し、いろいろなタガをはめて整形する過程を教育とする連中が、教科書検定なんてものに熱心に� �る。発想は同じだ」
ゴマ「しかし、曲がったキュウリには意思はないが、人間には意思がある」
ハエ「意思があるから、曲がった精神も教育で真っすぐに直すことができると見られるのさ。精神も規格化できると」
ゴマ「その意思ってやつが曲者だ。曲がったフリもできるし、真っすぐになったフリもできる。だいたい教科書は子供らにとって、読みたくて読む本ではなかろうし、これだけ情報過多の社会の中では教科書も相対化される。学校の中では検定教科書に書かれていることを信じても、社会に出て見聞を広めれば、自分なりの考え、見方ができて来る」
ハエ「学校はいわば畑なんだな。規格に合う人間になるように整形に務め、畑から出れば、後は選別だけが待っている」
ゴマ「曲がったキュウリだっていい� �ゃないかと最近は言われるし、日本人はもっと自己主張をしたほうがいいとも言われる。教育も変わらざるを得ないんじゃないか?」
ハエ「変わるにしても、国が教育に関与している限り、方向性は必ず設定される。曲がったキュウリの許容範囲は広くなるかもしれないけど、キュウリ畑の中に生えたナスやトウモロコシは排除され、キュウリだけでまとめて出荷されるということは変わらないだろうな」
押し付け牛肉……(5/14)
日本国憲法への批判の一つに、占領軍(アメリカ)からの押しつけだというのがあります。実際に、草案を占領軍(アメリカ)が書き、日本側の保守的な案を押し切って採択させたといわれ、草案にはアメリカの影響が強いことは確かです。まあ、最終的には日本の議会 が議決して成立したのですから、「押し付けられた」などといつまでも言うのは日本人としての自己責任を回避した女々しい振る舞いにも見えますが…。
ところで自主憲法制定などと気張っている連中は、最近のアメリカからの牛肉輸入再開圧力には、さぞ悲憤慷慨しているのだろうと見ていたら、静かなままです。街宣車が「日本の自主独立を貫け」「アメリカ牛肉の押し付け反対」などと走り回ることもないようです。
アメリカは日本の全頭検査を「科学的ではない」などと批判します。ではアメリカでどのような"科学的"検査が行われているかというと、行われてはいません。「歩き方がおかしい」などと目で見て判断できる牛を排除しているだけです。
アメリカでは全頭検査が不可能だという現実もあります。� ��年、二千万頭以上の牛が解体されていますので、全頭検査はおろか、生後20カ月以上に限定したところで、全米で検査体制を構築するまでには時間がかかり、費用もかかります。アメリカ政府にとって、全米の畜産業者と日本政府のどちらが手強いか。その答えが「押しつけ牛肉」です。
もう一つ、日本向けだけに全頭検査を行うと、全米の消費者が黙っていないでしょう。「日本向けだけには安全性を担保して、アメリカ国民には"灰色"牛肉を押し付けるのか」などと不満が噴出しかねません。
「拒否できない日本」(関岡英之著、文春新書)を読むと、アメリカが日本に様々なものを押し付けていることが判ります。規制緩和だの構造改革だのともてはやされているものの多くが、「シナリオ・バイ・アメリカ」のよう� �す。アメリカの言うなりに動いてきた日本政府が、久しぶりに、アメリカの意向に逆らったのがアメリカ産牛肉の輸入停止であり、「飼い犬に歯向かわれた」とアメリカが強硬になるのも、なるほど、そういうカラクリかと見えて来ます。
押しつけ牛肉ならば、日本の消費者は選択できます。圧力に負け日本政府が腰砕けになったところで、消費者は産地表示をよく見て、アメリカ産を買わなければいいだけです。アメリカ産牛肉輸入再開の暁には、日本のマスコミは牛丼復活ともてはやすでしょうが、スポンサー配慮のそんなマスコミの牛丼ヨイショにだまされては、BSE汚染牛肉を食べてクロイツ・フェルトヤコブ病になるのも自己責任だとなりましょう。
アジア解放を目指した男たち……(5/4)
中� ��も日本も互いに反感を強めあう方向へ動いている。その拠り所にしているのが、それぞれの民族意識と被害者意識だ。これは両国の人々にとって不幸である。
「豊かになれる者から豊かになれ」とする今の中国では階級意識を強調することはできず、共産党独裁の根拠を対日抗戦の勝利者であることに求める。同時に、侵略の被害者であったことを中国民族意識にすり込ませる。日本軍が中国大陸から去った後も香港で植民地支配を続けてきたイギリスに対しては、中国人の民族意識は作動しない。中国共産党は条約の期限切れまで、植民地・香港に手を出せなかったからである。
日本においては、日本を標的に暴徒化した中国各地のデモの映像が繰り返し流され、「今回、先に手を出したのは中国人だ」との被害者意識が醸� ��される。
双方とも被害者意識をベースにしているだけに、日中政府はともに相手の出方(謝罪)待ち。バンドンで小泉首相が村山談話を再表明したことを中国政府は謝罪と解釈して、国内のデモを抑えにかかり、今回の反日ムーブメントを収拾させる構えだ。次のポイントは、意固地な小泉が靖国参拝を行った場合だな。
宮崎滔天という人物がいた。孫文らを援助し、辛亥革命後には中国に渡り運動にも参加した。一時、浪花節語りになったこともあるユニークな人で、「三十三年の夢」という自伝がある(今は岩波文庫に入っている)。宮崎滔天は、アジアを植民地にしようという欧米列強に対抗し、アジアを解放するためには、まず中国が自立して強くなることを優先するべきだと考え行動した。宮崎滔天1人ではない。� ��人もの日本人が孫文らを支援した。
日中がいがみ合っているのを欧米は高みの見物だろう。日中がスクラムを組んだなら、世界経済の中心は東アジアになる。アジアの状況はこの100年ですっかり変わり、欧米に対して過剰な意識を持たなくてもいいところまで来たが、日中の反目が固定化するのは欧米にとっては好都合だ。
情報、交通網が世界規模で発達した現在、アジア人意識を強いて持つ必要はないし、ましてや一つの民族意識の中に閉じこもる必要もない。ただ個々の人間が自由で尊重されて生きるという理想的な社会のあり方には、おそらく民族の別も人種の別もないだろう。つまり問題意識を持ちながら、被害者意識や民族意識を捨てたところで、現代の孫文や宮崎滔天が見えて来る。
中国にも必要な民 主主義……(4/22)
毛沢(ケザワ)「これからが面白くなりそうだったのに、中国共産党は反日デモを抑えにかかり始めた」
江沢(エザワ)「井の中の蛙の日本の政治家らに中国政府の意図を思い知らせてやったのだから、反日デモの役目は終わったのだ。このまま続けていればデモがエスカレートしかねず、デモの矛先が中国共産党に向く可能性も出てきたので、先手を打ったのだ」
毛沢「厳しい報道統制の中でも、地方では腐敗への抗議や待遇改善を求めるデモが頻発し、一部は暴動化していると伝わっている。反日なら無届けデモが許されると知れ渡ったなら、格好の口実になるからな。しかし、中国共産党の思惑通りに人民はおとなしくなるかな」
江沢「愛国無罪は叫んでも、中国共産党相手に造反有理� �叫ぶほどの肝っ玉は、おそらく今の学生連中は持ってはいまい」
毛沢「革命の精神は消えたのか。永続革命こそ中国共産党の根本精神だったはずなのに」
江沢「革命の時代はとうに終わっている。今は経済の時代だ。資本家を養成・保護して、先に豊かになれる者はなれ、という時代だ」
毛沢「中国で主席だの首相だの幹部だのと呼ばれている連中の誰1人として、直接選挙で人民から選ばれた者はいない。あのイラクでさえ、直接選挙を試みているというのに」
江沢「確かに不思議だな。民主主義を世界に広めるとか勝手に言っているアメリカが、中国にも民主主義を広めようなんて決して言わない」
毛沢「中国が民主国家になったなら、経済だけではなく政治的にも国際的影響力を増すのは確実だ。アメリカのヘゲ� �ニーを脅かしかねないから、アメリカは中国の共産党独裁には何にも言わない。アメリカの外交では、アメリカに好都合な独裁政権には何も言わない」
江沢「もうひとつ、中国に民主主義が導入されたなら、統一国家であり続けられるかという不安もある。いまや世界の工場となった中国で政治的混乱が拡大し、分裂・解体することになったなら、アメリカ経済にも影響を与える」
毛沢「また、経済か。人民の幸福を第一に考えるべきだ。中国人民の」
江沢「その人民の願っている幸福が、今では豊かになることなのだ」
毛沢「人はパンのみにて生きるものでもあるまい。貧しいから革命は必然だったが、豊かになったからこそ求められる政治的自由もあるはずだ。共産党独裁の終焉は近付いている」
江沢「革命家は、� �切られ続けても、夢を見るものなんだな」
やっと「独立」できる?……(4/10)
自民党の憲法改正試案要綱では、自衛権と自衛軍の保有を明記した。言語規定があいまいのまま使われている「普通の国」に近付いたということになるのかもしれないが、「普通の国」なら、自前の軍隊で自衛したなら外国軍の駐留など拒否するだろう。植民地ならともかく、独立国なんだろうから。
一連の憲法改正"ブーム"は、9条が焦点だった。アジアでも有数の規模の武装組織である自衛隊を、憲法上に正式の軍隊として位置づけるということが第一の狙いであり、そこに「せっかく憲法を改正するのなら、ついでに」というわけで、国家主義的観点から国民に様々な義務があることを憲法に明記しようと、火事場泥棒的に改正案� �盛り込んだ。例えば、国防の義務。これを憲法に入れることで徴兵制の法的根拠となる。
話を戻して、軍隊を持たない国=日本を守るために、アメリカが日本国内に基地を置き、日本に対する外敵からの攻撃に備えるというのが日米安保条約である。つまり、軍隊放棄の日本国憲法と、アメリカ軍の日本駐留を認めた日米安保条約は一体のものであるのだ。だから、日本国憲法を改正して日本が独自の軍隊を正式に持った時、現行の日米安保条約は必要なくなる。
しかし、改憲派はアメリカと離れることに不安を感じ、そこで集団的自衛権容認を改正後の憲法に盛り込もうとする。次いで日米安保条約を対等な軍事同盟条約に変え、日本国内のアメリカ軍基地はそのままにしておこうというのが狙い。「普通の国」らしく、他� �の軍隊の駐留を拒否するだけの根性は日本の政治家にはないのかもしれない。
アメリカの世界戦略に日本の米軍基地は欠かせないので、アメリカには日本の、特に沖縄の基地を手放すつもりはない。日本は韓国ほど反米感情は強くない(最近は反日感情ばかり強調されるが、反米感情も強い)こともあるし、たっぷりと日本政府は思いやり予算で米軍基地の諸費用を払ってくれる(植民地政府でも、こんな金の使い方はしないぞ)から、アメリカには日本から「出て行く」気はない。
憲法とは何なのか。国家権力が民衆に強要するものなのか、民衆が国家権力のあり方を規定するものなのか。改憲"ムード"に浮かれる前に、誰のための憲法なのか、何のための憲法なのか、立ち止まってじっくり考えた方がいい。
TVはネットで?……(4/3)
雲雀「墨田区の押上に新東京タワーが立つという。高さ660メートルというから、東京タワーのように鉄骨で組み上げるとしたなら、膨大な鉄需要が発生する」
燕 「地上デジタル放送に必要だという説明だが、そんな大きなタワーを必要とする地上デジタル放送って何なんだ?」
雲雀「現在の地上波から、NHKも民放も数年後には完全移行することが予定されている新しいTV放送システムだ。送信システムも新しくなるが、受信システムも変更があり、今のTV受像機では映らないから、こちらも全国的に膨大な買い換え需要が想定されている」
燕 「施設や設備に多額な投資が必要となるのに、移行に踏み切ったんだからTV局はやっぱり儲かっているんだなあ」
雲雀「一方では、デジタ ル化された放送は光ファイバーで対応できるという見方もある。数百億円かけて新東京タワーをつくり数千億円かけて全国で新しい送信システムをつくるより、家庭への光ファイバー導入に補助金を出した方が安上がりだという見方だ」
燕 「フジテレビを支配しようとした堀江が言った『放送とネットの融合』とは、そのことか? 有力ソフトとしてテレビ番組の再放送をネットで流すため、そのソフトを持っているTV局が狙われたと見ていたのだが」
雲雀「もしフジテレビを手に入れていれば、再放送だけでなく、光ファイバー網を使った番組配信もありえたかもしれない」
燕 「でも、官僚の音頭取りで全国のTV局が地上デジタル放送に移行する中で、フジテレビだけが地上デジタル放送から抜け、回線業者と組んでネット で番組を配信するようになったら、ほかにも、多額の費用を要する地上デジタル放送に背を向けフジテレビに続く局が出て来る。国策として進めた地上デジタル放送構想がネットに負ける」
雲雀「そうなったら、膨大な放送システムへの投資や、全国的なテレビの買い換え需要が空振りになる。産業界にライブドアへの反感が強いのは、こう見ると理解できる」
燕 「最近のパソコンはテレビも見ることができるが、地上デジタル放送が始まったら、その頃は光接続が増えていようし、各TV局はネットでも番組配信するようになるのじゃないか?」
雲雀「ダビングの問題があるからデジタル放送は受信できないようにしてあるというが、コピーできないようにして、徐々に受信できるようになるだろうな。そうなると各局は遅か� �早かれネットでも配信するようになる」
燕 「つまり、多額な設備投資と全国的な買い換え需要の確保だけは譲れない、ということだけか」
<2005年1〜3月>
正しい食べ方……(3/20)
ある日、飲み屋で知り合った数人が熱く語った。そのテーマは「ラーメンライスはどのような順序で食べるのが正しいか?」。
学生時代に毎日のように食べていたというA氏は、「まず一口、レンゲでラーメンのスープを飲み、そのあとは麺をひたすら喰う。麺を喰い終わったら、残ったラーメンスープをオカズにライスを喰う。これが正道だ」とし、「昔はいろいろな喰い方を試してみたんだが、これが一番うまかった。ラーメンだけでは小腹が空くから、ラーメンの後にライスで腹を満たすという趣旨にも合致する」と断言する。
自称グルメのB青年は、A氏の言を真っ向から否定、「そんな、麺とライスの別喰いは間違っている。ラーメンとライスを頼んだのならそ� �でもいいが、ラーメンライスというセットメニューであるのだから、ラーメンとライスを融合させた食べ方をしなければならない。ラーメンライスの正しい食べ方は、麺を2口ほど食べ、スープを1口すすり、ライスを1口喰う。これを繰り返すのが正しい食べ方だ」と譲らない。
「まてまて」と、小4の時に初めてラーメンライスを食べたというC氏は「最初にスープを飲み、次に麺を喰う。そこはA氏と同じだが、その先、麺が三分の一ほどになったら、そこにライスを入れて合体させて、かき込む。これは、うまいぞ」と、遠くを懐かしく見るような目つきで言う。
「そんな喰い方は邪道だ」とA氏、B青年が声を揃えた。「邪道じゃない。そっちこそ邪道だ」とC氏が言い返し、険悪な雰囲気になりかけたが、趣味はカラオケ でジャズを歌うことだというD氏が「そばライスとかスパゲティライスなんて一般的ではないのに、なぜラーメンライスだけが市民権を得たか。それはラーメンがライスのオカズになるからだ。だからB青年の言うように、ラーメンをオカズにライスを喰うのが正しい」と割って入り、「だから、ラーメンライスでは半ライスは邪道だ。ドンブリ飯でなければ、いかん」と言葉にも力が入る。
これにはC氏が黙っていない。「ライスラーメンならそれでもいいが、ラーメンライスなんだからラーメンが主役だ」。すかさずB青年が「その主役のラーメンの中にライスを入れるのが間違っているんだ」と言葉を挟むと、C氏は「それはラーメンのスープをよりじっくり味わうためだ。ただスープを飲むより、ライスに吸わせた方がスープの味の 良し悪しがはっきりする」。「そうじゃない」とA氏が…………(議論はつきませんでした)
東京を捨てた友……(3/12)
30年近い付き合いの友人が先日、山梨の山間に畑付きの農家を買い、東京を離れた。子どもらが独立したこともあってか、彼は早期退職に応募、友人間の噂では、独立してコンサルタントでも始めるんだろうということになっていたが、彼は東京の家を処分し、夫婦2人で引っ越した。年金暮らしまで、あと10年近くはあるはずだが、畑で野菜類をつくり、半自給自足的な生活をおくるつもりだという。
あいつは何故そんな決心をしたのか? 一夕、様子を見がてら訪ねた。
彼は「来年の今頃には俺がつくった野菜を食わしてやる」などと言いながら、「畑があれば、野菜は 何でもできるだろうなんて思ってたけど、気候風土に結構制約されるんだな。だから今は近くの農家の人と親しくなって、この土地のことを少しずつ教えてもらっているところだ」と、新しい生活を楽しんでいる様子で話す。
「東京で仕事をしていれば、まだまだ稼げたはずなのに」と水を向けると、「東京での仕事は面白かったし、東京での生活も楽しかったが、だんだん冷めてきたのか、つまらなさを気持ちの中で誤摩化せなくなった。誰かが言ったことの受け売りを、さも自分の知恵であるかのように装って声高に言う連中がはびこり、1、2ヶ月で消費され尽くす商品/情報/人間の氾濫…。消費されるから金が回るってことは十も承知でやってきたが、もう、いいだろう?って気持ちになった」。
「綺麗ごとすぎるんじ� ��ないか?」と互いに酔いの回ったところで、本音を吐けと迫ると、あいつは「正直言うと、そろそろ東京に大地震が来るんじゃないかと不安が増した。それが第一だ」。神戸のホテルで大地震を体験し、市街地が燃えるさまを直接見ているだけに、震災の不安は彼にとっては現実的なものらしい。続けて「もうひとつは、日本の国家財政の破綻だ。政府も何らかの手を打たざるを得なくなり、大増税とインフレの時代になる。地震にしても大増税とインフレにしても、東京にいては、巻き込まれるだけだ。だから、早めに手を打った。ここがあれば、もしもの時は子どもらは逃げて来ることができるし、自給自足ができるようにしておけば、大増税やインフレにも耐えられるだろう?」
あいつの不安が杞憂であれば、いいのだが……
存在は空であるか?……(3/6)
キリスト教、イスラム教などをはじめ世界の宗教の大半(アニミズムを含めて)は「存在は存在している」という点では一致しているのに、仏教だけは「存在は空」という特異な考え方をしている。もともと「私」という観念が希薄であった列島の日本人の意識の上に「存在は空」という仏教思想が張り付いてしまったから、日本人が世界の中で特異な存在になってしまっている……というのは評論家の山根二郎氏(「話の特集2005 創刊40周年記念」)。
山根氏は、人の身体は不浄なもので『すべては虚無から生じ、すべては虚無に還る』とする仏教の"非人間性"を列挙し、「仏教を根源的に疑い、怪しみ、否定せんとする勇気のある者は今の日本にはどこにもいない� �だ」と嘆き、仏教思想を批判せずに日本に自前の近代はあろうはずもなく、「日本人よ、仏教と格闘して近代をやり直せ」と結ぶ。
「存在は空」であるという考え方は古代インドで一般的だったものであり、仏教は古代インド人の世界観(人生観)を基本として成り立った宗教だ。ゼロという概念を"発見"したのもインド人であることを考えると、ゼロという概念を人間にも当てはめて見ていたのではないか、などと想像したくなる。
その仏教が日本人の精神形成に多大な影響を与えたことは間違いないが、山根氏の言うように、仏教と格闘して、その思想的影響下から脱しなければ日本人は近代人になれないのであれば、おそらく日本人は近代人にはなれまい。つまり日本人は仏教思想の影響下から容易には脱しきれまい� �なぜか? それは(1)仏教をありがたがっても、仏教への批判的意識は持てないだろうからであり、(2)日常で刷り込まれている仏教の影響力について無自覚であるからだ。
「存在は空」であるならば、現世を享楽的に生きてもいいはずだが、仏教ではそこに仕掛けがあり、輪廻転生を持ち出す(これも古代インド人の発想)。キリスト教などでは死後の審判があるため現世では身を慎めとなるが、仏教では来世のため徳を積めとなる。宗教的発想というのは似てくるものらしい。
「存在は空」であるのか、輪廻転生はあるのか、人の身体は不浄であるのか。坊さんの話をありがたがる前に、そこらを自分で考える必要がありそうだ。
それだけで済むのかしら……(2/26)
首都圏で直下型の地震が 起きると、1万数千人が死亡し、全壊・半壊家屋が80万棟台になり、自宅に住めなくなる人は約700万人、約460万人が避難所で暮らさざるを得なくなり、建物・道路・水道・ガス網などへの直接被害が約67兆円(建物が約55兆円)、生産停滞などの間接被害が約45兆円になるという想定を政府の中央防災会議が公表した。
この手の被害想定額は不安を煽るとして従来は内密にされていたが、現実に阪神大震災が発生し、神戸などに多大な被害(直接被害は約10兆円)が出たのを見せつけられると、隠しておくこと=想定される地震に対して何の対策も考えていない、と受け止められかねないとの懸念が大きくなって公表するようになったのだろう。また、直下型地震の被害が大きすぎて政府の手に余る、つまり「直下型地震に皆さん、備 えて下さい。政府が何もかも助けることはできませんよ。そこのところ、よろしく」ということだ。
阪神大震災では、高速道路が倒れ、ビルの中層階がつぶれ、ペンシルビルは傾き、1階がつぶれた木造家屋は珍しくなく、ぺしゃんこになった木造家屋も多かった。また、アスファルトで覆われた地面には細かなひび割れが縦横に走り、起伏のできたところもあって、一帯が焼け野原になった区画も多かった。あの状況を首都圏にあてはめれば、公表された数字は"控えめ"なものかもしれない。
例えば、早朝の阪神大震災では六千人以上が亡くなったが、首都圏の直下型地震で阪神大震災の2倍程度の死者ですむのか、いささか疑問がある。交通被害を見ても、脱線などにより新幹線・在来線・地下鉄で300人の死者が予想され� �いるが、日中ならばゼロがもう一つ加わるだろう。
今回の被害想定額112兆円は日本の国家予算を上回る。GDPの約4分の1にもなり、首都圏に企業の本社が集中していることを考えると、首都圏直下型地震は日本経済に相当のダメージを与える。当然、政府から具体的対策を早急に進めるとの表明があるかと見ていたら、ない。目の前にある危機に備えず、改憲論議をもてあそんでいる政治家に日本はつぶされるのだろう。
分裂したって、いいんだよ……(2/20)
イラク国民議会選挙でイスラム教シーア派の政党連合「統一イラク連合」が得票率48.2%で第1勢力となり、次期首相を自派から出して政治の実権を握ろうとしている。第2勢力となったのは、クルド2大勢力が大同団結した同25.7%の「クル ド同盟」で、実質的な独立を目指し、連邦制を主張しているという。
最近、マスコミに取り上げられるようになったのがスーダン。イスラム教徒のアラブ系政権とキリスト教徒の黒人系の反政府勢力の内戦が22年続いてきたが、今年1月に和平合意がなされた。複雑なのは、スーダン西部では政府系民兵による黒人への迫害が続いてきたことで、ジェノサイド(集団虐殺)の疑いも持たれている。
地図で見ると、イラクもスーダンも、中東やアフリカには直線が目につく。つまり欧州の植民地だった。欧州人がやってきて、勝手に線引きし、植民地とした。その土地に住んでいる人々の自発的なまとまりなどとは関係なく、植民地として一括りにされ、それが第2次大戦後、独立して国家となった。
どうして、そこに住� ��でいる人々に国家意識が発生しようか。そもそも彼らが一つの国家を形成していなければならない理由はない。植民地の残滓を引きずっているだけである。
冷戦期には米ソの勢力争いが世界的に行われ、国家の分裂は米ソの勢力バランスを崩すとして許されなかったが、冷戦終焉後、ソ連の崩壊とともに国家の分裂・解体の動きは欧州において進み、東ドイツは消滅し、チェコとスロバキアは分裂し、ユーゴスラビアは民族別に分裂した。
しかし、中東やアフリカなど欧州の旧植民地においては、未だに民族自決は"許されない"。誰が許さないかというと、欧州である。彼らにとって植民地は、例えばアフリカに対する最近の姿勢に見られるように、同情・援助の対象としては取り上げるが、民族自決の原理を旧植民地の人� ��に適用することは許さない。人道だの人権だのの綺麗事でごまかしているが、旧植民地がそのままの枠組みで存在し続ける事が、旧宗主国である欧州にとっての利益であるからだ。
民主主義の大原則は、自分らに関する事は自分らで決めるということだ。イラクにしてもスーダンにしても、植民地の線引きをいつまでも引き継ぐ必要はない。チェコスロバキアやユーゴスラビアのように、分裂したければ分裂すべきだ。いつまでも欧州の言うなりに、なっていなければならない時代は、終わった。
通貨と信用……(2/10)
蘇我「ニセ1万円札が出まわったかと思えば、今度はニセ500円硬貨か。次は5000円札か? 100円硬貨か?」
物部「先日、俺もニセ札をつかまされたかと思ったが、よく� �ると2000円札だった。2000円札なら、偽札だったとしても誰も気付かないだろうな」
蘇我「誰かがパッパッと紙切れに印刷して、それが1万円札として通用するなら旨い話だが、そうは問屋が卸さないさ。日銀が印刷した紙切れだけを1万円札として通用させることは国家主権に関わることだから、目の色を変えて取り締まるだろうな」
物部「いまのところ、ニセ通貨をつかまされる不安はあっても、日本の通貨への不安は出ていないようだから、一過性の事件で済まされている。大量の借金をかかえる日本の財政破綻が、増税やらインフレやらで皆の目にはっきり見えてくれば、日本の通貨の交換価値が国際的に低下していく。そんな時にニセ通貨が出回れば、それが切っ掛けとなって円への信用が国内でも揺らぎ、政情不安の国々 で見られるように日本の人々も日常的にドルを使うようになるかもしれない」
蘇我「ニセドルも大量に出回っているから、ドルでも円でも自己責任で使用するしかない状況になっていくのかもしれないな」
物部「なるほど。そうした事態に備えて富裕層は預金をドル建てに移しているのかも」
蘇我「ドルも膨大な双子の赤字で信用が揺らぐが、世界中に流通していて、身近な価値交換の媒介物としてドルに代わるものはないからな」
物部「戦争中には、交戦相手国の経済的混乱を狙ってニセ通貨を国家が作って、ばらまくということがあるそうだ。冷戦期にも同様のことが行われていたという話もあるが、さて今回のニセ通貨、近くのどこかの国が仕掛けたという想像もしたくなるが」
蘇我「以前はそんなこともあったと 言われるが、今回は違うだろう。ニセ1万円札は本物をスキャナーでPCに取り込み印刷したものと報じられているし、ニセ500円硬貨はおそらく本物から型取りして鋳造したものだろう。どちらも大掛かりな設備や人員は必要としない」
物部「通貨当局は新技術の導入で偽造されにくくしているが、通貨がある限り偽造しようとする連中は現れる」
蘇我「なにも偽造は最新の通貨だけが対象でなければならないわけではない。現在の偽造技術を持ってすれば、過去の紙幣は何でも偽造できるだろうし、有価証券の類いも対象となる」
物部「エセと本物の見分けは自己責任で行うしかないということだな」
スポーツとなった大相撲……(1/22)
大相撲人気の凋落が囁かれている。若貴、武蔵丸、曙、舞の海、寺尾ら"華のある"力士が引退し、代わりにモンゴル出身力士が増え、さらには東欧などの出身力士も増えて親近感が薄れたことも影響しているようだ。
しかし、土俵の面白さは変わっていない。いや、200キロ台の超デブ力士が立ち合いにぶちかまして押し出す、または相手をつかまえて寄り切る戦法が主だった頃とは大きく違ってきていて、多彩な技が繰り出されるようになった。体格勝負の頃より、観ていて、ずっと面白い。200キロ台の超デブ力士がいなくなり、中量級の力士が増えたことによって、動きが素早くなり、投げなどの技を競う"スポーツ" に大相撲はなったといえそうだ。
ところで超デブ力士は小錦、曙、武蔵丸らを代表とするアメリカ勢だった。相手を土俵の外に押し出せば勝ちなのだからと、立ち合いの当たり重視で超デブ化した。アメリカ勢は大相撲にも物量作戦を持ち込んだ。しかし、この物量作戦は失敗した。超デブ化するほどに自分の膝にかかる重量も増え、動きが鈍った。
アメリカ軍の戦法の基本は、物量で相手を圧倒する物量作戦だ。軍だけではなく日常生活においても大量生産・大量消費の発祥地であり、また、世界最大の消費市場である。アメリカこそが物量信仰の総本山だといえよう。その"アメリカンスタンダード"を大相撲にも持ち込んで一時は大成功したかに見えたが、相撲における物量作戦=体重増は自滅する結果となった。
� ��相撲はモンゴル、東欧などの新しい"血"を入れることによって活性化した。アメリカ頼みも、国技だとふんぞり返ることもを止めて、広く世界に目を向けることにより活路が開けた。なにやら日本の他の多くの分野にも当てはまる方向のように見える。
大津波と"地球に優しい"……(1/10)
震源域が千キロにも及び、断層が13、4メートルにもなったというスマトラ沖地震・津波は、自然の力の計り知れなさを見せつけた。その巨大な力の前には人間も国家も単独では対応できず、支援・対応の規模もまさしく地球規模になった。
ところで、エコロジーをアピールするキャッチフレーズとして"地球に優しい"という言葉がある。"自然との共生"もよく使われる。いずれも無条件に認められ� �大前提ででもあるかのように流布し、情に訴える言葉ではあるが、地球は"人間に優しい"のか? 自然は"人間との共生"を望んでいるのか?
今回の地震・津波を持ち出すまでもなく、日本列島は昨年、台風や集中豪雨、地震に見舞われた。毎年、世界では何かの自然災害が起こっている。地球は"人間には優しくない"のであり、自然は"人間との共生なんか考えていない"。もちろん地球にも自然にも意志などはなく、"優しい"にしても"共生"にしても人間が勝手に考えたイメージにすぎないのだが、地球や自然を持ち出すことにより、環境問題が人間の意識の問題であることがぼやかされている。
オゾン層に穴が開いたとしても2万年もすれば回復するというし、温暖化が進んだとしても千年単位で考えれば小さ� �変化かもしれない。極端な話、地表のすべてが砂漠化し、生物の多くが死に絶えても地球にとってはそれも"自然"であろう。
美しい自然景観の中に空き缶やゴミなどが散らばっているのは興ざめであり、木を切りすぎて山の保水力が低下し、洪水になりやすくなれば人間の生活に支障が出てくる。大量消費の結果としてゴミ処理が膨大になり対応に追われる。環境問題とは、人間の生活・生存環境の問題である。地球に優しい? そんなことはどうでもいい。自然との共生? 自己満足の意味しかない。
(おまけの話=8日夜のTBSテレビ番組「ブロードキャスター」冒頭でスマトラ沖地震・津波のニュースを流していたが、津波の映像をバックにスポンサー名が表示され、そこに「水と生きる サントリー」とあった。� �なんだ? この感覚は)
二ート……(1/4)
ニートと呼ばれる若者が52万人いるそうで、厚労省は自立支援・就職支援活動を強化すると言う。手に職もなく就業意欲の低い若者が大量にいては、日本経済の今後にも大きな影響があるとして動き出したのだろうが、ニートが一時的な現象なのか構造的な現象なのか、その見分けが曖昧では効果的な対策は出てこまい。
ニートは日本社会の豊かさを表しているとの見方もできる。つまり、働かない子供を扶養する経済力が親にある。一方、将来的な個人消費縮小を示唆するものとして、日本経済の衰退を表すとする見方もできる。リストラや若者の就職難など正社員を絞り込む雇用形態が定着しつつあり、現在ニートの若者はせいぜい低賃金労働者� �しかなれない可能性は高い。
ニートになれない若者はどうするのだろうか。バイト、パート、派遣、臨時など、低賃金で不安定であっても生活のために何かの仕事に就くしかない。おそらく厚労省のニート対策の対象には、これらの「ニートになれない若者」は入っていない。同様に厚労省の対策の対象に入っていないのが、中高年の「ニート」、つまりホームレスと呼ばれる人々。こちらは、当人に就労意欲は残っていても職がないという違いはあるが。
日本では、中流階層が解体され、階層分化がより進み、所得格差が明確化するという構造変化が進んでいる。多くの人々にとっては、貧しくなるという形で構造変化が現れる。おそらく世界的に見れば、こうした階層分化は特別ではないだろう。つまり、職がなかったり� �低賃金労働に従事する貧しい人々は大量にいる。
共産主義の失敗で階級意識が幻想であることは明らかとなり、また、貧しさと向き合う思想も乏しいが、貧しさの中の人々をそのままにしておいていいわけではない。貧しい人々を援助などの対象と考えるのではない。原則は民主主義である。つまり、自分らに関わりのあることは自分らで決める。自ら動き始めることでしか道は開かれない。
ニートと呼ばれる若者らの自発性を、厚労省の官僚主導で引き出すことができるかは疑問だが、せめて、ニートと呼ばれる若者らの中から社会を見る新しい視点が出て来ることを期待したい。
国のかたち……(1/2)
人はなぜ国を欲しがるのでしょうか。別の言い方をします。人はなぜ国に帰属したがるの� �しょうか。現実には国際政治が国を単位として行われていますし、身の回りの生活の様々な場面で国の関与が存在するのも確かです。ただ、どうも国に対して必要以上に"思い入れ"る人々が現れ始めているようです。
歴史的に見て国が、最初から民主的な機構として成立していたところは少なく、多くは、有力者の勢力争いの結果としての専制国家や強権国家を経て、近代になって民主国家になりました。そうした過程で、支配を正当化するために、支配者や支配集団ではなく、対象を国にすり替えて忠誠心を煽りました。その残滓が拭いきれていないようです。
例えば、自分の住んでいる村や町、区などを対象に「愛し、忠誠を誓い、死をも辞せず」などと言う人はいません。それらが行政機構でしかないことを皆知って� �るからです。しかし、国が対象となると、「愛し、忠誠を誓い、死をも辞せず」などと言う人が現れても、それが奇妙な振る舞いだと気付かないことがあります。
国への帰属意識は、実態が曖昧であるため成立しています。帰属対象である国と、帰属しようとする自己意識の双方とも曖昧のまま、強い個人(実は国に依存している)がそこにいるような錯覚として成立しています。しかし、極端な話ですが、日本という国が滅んだとします。日本人はその時どうなるのでしょうか。日本という国を懐かしがりつつ、国から放り出された個人として生きていくしかありません。1945年にそれに近い状況になりました。
国を否定せよと言っているのではありません。人間の社会・集団生活に必要な調整機構です。それだけです。この� ��のかたちは、どこかから与えられるものではなく、我々が決めるものです。
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